銀閣寺

(2006/03/24 京都観光半日コースA)

銀閣寺の歴史
銀閣寺は金閣寺とともに相国寺の山外塔頭のひとつで、正式には慈照寺といい、山号を東山(トウザン)といいます。京都の東に連なる山々は東山(ヒガシヤマ)と呼ばれ、如意が岳(大文字山)を中心になだらかに続いています。この山なみは古来女性のやさしさにたとえられ、数々の歌にもうたわれ、人々に親しまれてきました。なかでも大文字山と呼ばれる如意ヶ岳は、お盆の8月16日の夜に点火される送り火で知られています。銀閣寺はこの大文字山の麓にあります。門前には哲学者西田幾太郎が思索の場として散策した哲学の道があり、桜や蛍の名所として人々の散策路になっています。

銀閣寺垣
総門から中門まで長さ約50メートルの参道。銀閣寺垣と呼ばれる竹垣で囲まれた細長い空間は、これから始まる壮大なドラマの序章です。本来は防御をかねた外界との区切りとして設けられたと思われますが、その厳粛で人工的な空間は我々の雑念を消し去ってくれます。それは喧噪の現代に生きる我々と、東山殿に現出しようとした浄土世界をつなぐプロローグでもあります。
方 丈

 方丈(本堂)は江戸中期の建造。銀沙灘(ギンシャダン)と対象をなすその堂々たるたたずまいは、義政公の遺徳をも偲ばせます。
 ご本尊として釈迦牟尼仏が安置され、正面の額には「東山水上行(トウザンスイジョウコウ)」を掲げ、内部には江戸期の南宋画家の巨匠、与謝蕪村(ヨサブソン)、池大雅(イケノタイガ)の襖絵が所蔵されてます。方丈から見る月待山はまさに絶景です。

観音殿 銀閣

 銀閣寺の俗称のとおり、慈照寺の象徴というべきものがこの観音殿(銀閣・国宝)です。義政公は自らの宗教観を託し、一層を心空殿(シンクウデン)、二層を潮音閣(チョウオンカク)と命名しました。鹿苑寺(ロクオンジ)の舎利殿(シャリデン)(金閣)、西芳寺(サイホウジ)の瑠璃殿(ルリデン)を踏襲、唯一現存する室町期の楼閣庭園建築の代表的建造物として有名です。
 白砂の砂盛り向月台(コウゲツダイ)と、波紋を表現した銀沙灘(ギンシャダン)とのコントラストは、訪れる人々を立ち去り難い世界に誘います。

銀 沙 灘
方丈前には白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説がありますが、これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。しかしこのような奇想天外な行き方は独創的で他に例がないでしょう。
義政公は9歳にして足利将軍家の家督を継ぎ、15歳にして征夷大将軍の座につきました。図らずも若くして権力の頂点を極めた義政公は、権謀術数がうごめく政治の世界から退き、隠栖生活を過ごすべく山荘造営を発案しました。その山荘が、ここにいう東山殿です。
 義政公はその生涯を東山殿の造営に託しました。8年の歳月を費やし、自らの美意識のすべてを投影。東山文化の真髄たる簡素枯淡の美を映す一大山荘を作り上げたのです。美の求道者ともいえる義政公の精神のドラマを500年をへた現代にも脈々と伝えています。
東 求 堂
 観音殿(カンノンデン)(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存するのが東求堂(国宝)です。東求堂は本来持仏堂(ジブツドウ)、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂でした。
 浄土信仰の象徴として東求堂を建て、禅宗様式の庭園を周囲にめぐらしたところに、義政公の精神世界を垣間見ることができます。
お 茶 の 井
下段の庭から東部の山腹をさかのぼると湧水、お茶の井があります。
中門